発酵活動家の田中菜月さんが各地を旅し、さまざまな人と交流を重ねながら、自分らしく生きていくためのヒントを見つける連載企画「ウェルビーイングをめぐる旅」。第3話となる今回は、海女さんの数が日本一多いとして知られる三重県鳥羽市です。訪れたのは、映画の中でゴジラが初めて上陸したと知られる石鏡町(いじかちょう)。お話を伺ったのは、この町で70年近くも海に潜り続け、いまもなお現役の海女さんを続けている城山とらさん84歳です。海とともにある城山さんの暮らしや、大切にしているものはどんなことでしょうか。その日常を取材しました。
海女さんの朝は早い。4時台、5時台には起床し、6時には海の様子を見て確認。きょうは漁に出られるか出られないかをその日の当番数名で判断して、町内にマイクで放送します。この日、城山さんこと“きんちゃん”は当番のひとり。背中にカバンとして愛用している背負子(しょいこ)をつけて、てくてく坂道を降りてきました。「おはようございます。きょうの海女漁はありません」。放送をし終えたら、神棚にお神酒を備えて手を合わせます。一日の始まりです。
「天気はあまり関係ないね。晴れていても波が高かったら海には入れないし、雨でも波があまりなかったら潜りに行くね」とのこと。取材当日も青空が広がっていましたが、白波が立っていたので危険と判断され、漁はありませんでした。それでも海女さんたちの“職場”である海を見てみたかったため、海女小屋に連れて行ってもらい、磯ばたという浅瀬で海女さんを経験させてもらいました。10m潜る海女さんもいますがきんちゃんは浅瀬専門。いつも水深2mほどを潜っているそうです。
昔、裸や布一枚だけを巻いて潜っていた時代、海女漁は寒い時期は30分が限界という非常に過酷な仕事でした。ウェットスーツの普及によって、漁はとてもラクになった一方で急速に資源が減ってしまったといいます。「だからいまは、『口明け』というのがあってね、漁に行ける時期が決まってる。アワビは11月頃に産卵するから、9/15~12/31はお休みだよ」とのこと。確かに一時的にたくさんの海産物が獲れても、資源が枯渇したら元も子もありません。海女さんの仕事の仕方には、持続可能な視点が取り入れられています。海に入った菜月さんは、自然と雑念は消えて五感が開いていったとのこと。「雲丹を海水で洗ってその場で食べさせてもらったりもして、海の世界の魅力を海女さんたちに見せてもらいました」と話しました。
海から上がった菜月さんは、“ターナカネ”と呼ばれる布製の巻きスカートに着替えることに。バスタオルのように巻いて使うもので、ウェットスーツを脱ぎ着するときに便利な海女さんたちの必須アイテムです。そしてかまどを囲んで、美味しいものを食べながら気楽にお喋りするのはきんちゃんの大好きな時間。
菜月さんの前には、特大のアワビ、大量のサザエ、ウニ、とこぶし、カマスなど豊かな海の幸とともにきんちゃん特製の大きな丸餅も並べられました。普段は海の幸を海女さんたちがここで食べることはないそうですが、きょうは菜月さんに食べてほしいとのことで、素晴らしいおもてなしが始まりました。「美味しい!お醤油をつけなくても海の味がして十分に美味しい!」と菜月さん大喜びです。きんちゃんはその様子を見ながら、のんびりゼリーやお菓子などを食べつつお喋りします。
「みんなで話すのは楽しいね。わたしもみんなも畑をやっているから、そのことをよく話す。もうミョウガは終わったとか、きょうはオクラがたくさん取れたとか、そろそろ大根を植えようとかね」。現在この海女小屋のメンバーは84歳のきんちゃんと、85歳の方がもうひとり。続いて79歳、64歳、49歳、43歳、39歳、29歳と8人の海女さんが所属していますが、副業をしている人も多く、それぞれが自分のペースで潜りに来られる日に集まっています。
「よくみんなでご飯の交換をする。ひとり一品作っても、8品のおかずが食べられるでしょ。同じ野菜でも調味料とか味付けが違うからね、面白いよ」。思わずいいなぁとつぶやいてしまう菜月さん。また3人の息子さんもひとり暮らしのきんちゃんの家に頻繁に来られるそうです。「掃除をしてくれたり、畑を手伝ってくれたりね。コロナの前は旅行もたくさん連れて行ってくれた。香港のマカオとかね。いいホテルに泊まってね」。ちょっと得意そうに話してくれるきんちゃんは、なんだかとっても可愛らしい。菜月さんも始終笑顔でお話を聞いていました。
「海女さんをやって、畑もやって…そんなふうに元気に暮らしているきんちゃんにとって、この32の言葉の中からいいと思うものを3つ選んでもらえますか?」と、菜月さんが並べたのは、自身や周囲の人々のウェルビーイングに意識を向け、対話をうながすツールとして使われているウェルビーイングカード。きんちゃんが選んだのは「感謝」「平和」「あらゆるものへの祈り」でした。
真っ先に選んだのは感謝です。「感謝はね、すべてにしている。わたしは足が悪いし、クルマも運転もできないけど、海に行くときは誰かが送ってくれる。いつもね、本当に感謝。でもね、足以外は悪いところはなくて身体は健康だから、そのことにも感謝。家族もね、近所の人もね、接骨院の先生もね、みんなに助けてもらってありがたい」。うんうんと自分で頷きながら話す姿が心に残ります。
2枚目は平和です。「戦争する国もあるけどな」と思わずポツンとつぶやいたきんちゃん。「きんちゃんにとって平和だと思う瞬間はいつですか?」という菜月さんの問いには「誰かと話してるときね。誰かが面白いこと言って笑ってね。明日は伊勢のお寺に行って、お坊さんのありがたいお話を聞きに行くのだけど楽しみ」と嬉しそう。たわいない人とのかかわりや交流のなかに、きんちゃんの平和が垣間見えます。
3枚目は「あらゆるものへの祈り」。「ありがたいと何に対しても思うし、手を合わせる気持ちがあるね。これは感謝と似ているな」ときんちゃん。菜月さんは今朝、きんちゃんが神棚に向かって祈っている姿を見ました。海が仕事の現場である海女さんたちにとっては、やはり危険と隣合せという側面もあるでしょう。きょう一日をつつがなく過ごせることへの祈りは、ごく自然なものとして捧げられているのではないでしょうか。
きんちゃんはとても働き者です。取材の日は海には入らなかったものの、海岸に打ち上げられた“あらめ”を拾ってきて早速自宅で干して、夕方にはお正月のしめ縄を作ってと「やることがいっぱいあるんだよね」と言いながら、ほとんど休まずに動いていました。そんな元気なきんちゃんに、やってみたいことがあるかを菜月さんが尋ねてみたところ、返ってきたのは「願いはもうない。ぜんぶ満たされているから」というシンプルで力強い一言。
きんちゃんは足が悪いので、歩くには杖が必要です。でも好きなように働いている。誰かに言われたからでも頼まれたからでもなくて、何でも自分がしたいからしている。「明日は海に入れるかな、楽しみ」というきんちゃんは、SDGsも、サステナブルも、ウェルビーイングも、フードロスも、その言葉のすべてを知らないかもしれないけれど、それらすべてを叶えている。石鏡の漁港を歩きながら「わたしの話なんて役に立ったのかな」というきんちゃんからは、自分なりのウェルビーイングを実現する自然な力を見せてもらったような気がします。